drink10:音楽

 あなたは、最近、酒ぬきで音楽をじっくり聴いたことがありますか?

「そう言われると、どうだったかなあ。そんなこと意識したことないから、よくわかんないけど、ないかもしれないなあ」という答えが、けっこう多く返ってきそうだ。

 バーボンのオン・ザ・ロックを味わいながらジャズを聴く、ワイングラスを傾けながらクラシックにひたる、チューハイをあおりながら演歌に酔いしれる、缶ビール片手にロックにのる……。
 音楽と酒はじつに相性がいい。ゆえに、酒ぬきで音楽を聴くなど考えにくいかもしれない。「コンサートにでも行けば飲まずに聴くけど、ふだんはまずないね。かるく1杯やりながら聴くって感じかな」という人がフツーだろう。

 そこで、そんなあなたに、ひとつの実験を試みていただきたいのだ。
 実験とは、酒ぬきで音楽を聴いてもらいたいのだ。それも1曲や2曲ではなく、できれば、目をつぶってじっくりと何曲も聴いてほしい。音楽のジャンルはなんでもいい。あなたが好きなものでいい。
「音楽以外に何もなく、何もせずに、ただひたすら音楽を聴く」ということが、けっこう集中力を要し、意外と重労働だということを発見するはずだ。馴れるまでは、自分の好きな音楽でさえ、ややもすると途中で気が散って、集中はおろか睡魔さえおそってくるかもしれない。そこを我慢(楽しいはずの音楽を「我慢して」聴くなどナンセンスと言われそうだが)ぜひ、こらえて聴きつづけてほしい。

 1日ではなく、3日、4日、さらに1週間、2週間と(忙しくて時間がないのは重々承知だが)根気よく音楽に向き合ってほしいのだ。けっして不可能なことじゃないはずだ。だって、あなたはかつて、そうやって聴いていたはずなんだもの。

 そう。かつて──あなたが──少年少女のとき──そうだったように──あたかも恋をするように──音楽に──まっすぐ向き合って──聴いてみて──ほしいのだ。

 かつて、あなたが10代の頃、1日じゅう音楽の近くにいたときがあった。自分の好きな曲を友だちにも好きになってもらおうと一生懸命に聴かせたり、人によっては深夜のラジオ番組にリクエストハガキを出したり、返事がないのはわかっていても好きなミュージシャンにファンレターを書いてみたり、コンサート情報をこまめにチェックしたりしながら……。あなたは、お気に入りの音楽を、それこそ肌身はなさず聴いていたはずだ。何度も何度も聴きなおし、口ずさみ、胸に刻みつけ、また聴きかえす……。

 あなたはそうやって大切な1曲を、胸のなかにしっかりとしまい込んだはずだ。そうやって、けっして忘れることのない青春の音を自分のものにしてきた。
 そう。あの頃、あなたにとって音楽は「独立」していた。酒を飲むことはあっても、けっして音楽は酒のつまみではなかった。

 10代のあなたは成長し、学校を卒業し、社会人となり、日々はまたたくまに流れ、気がつくと「オジさん」とか「オバさん」になってしまっている。音楽とのつき合いも、いつしか変わってしまった。あなたの中で音楽は「独立」を失い、そのかわり、手っとり早くあなたを酔わせてくれるアルコールとコンビを組まされてしまった。

 最近の音楽を耳にするたびに「近ごろの若いヤツの音楽は、どうも心にのこらない」なんて、まことしやかにコメントする人。あるいは「おれの感性、錆びついちゃってるからわかんないよ、もうオジサンだもん」とガードを固くする人……。
 ほんとうは「心にのこらない」のでも「感性が錆びている」のでもなく、そもそもあなたの耳は「聴いて」いないのではないだろうか。「聞こえて」はいるのかもしれないけど「聴いて」はいない。なにしろ、酒のつまみだもん。

 かつてあなたと音楽は、1対1の、真剣で、抜きさしならないつき合いだった。
 いま、あなたと酒と音楽は、三角関係をつくり、火遊びのように、つき合う。OK、それも音楽だ。でもね、お客さん。それじゃあ、音楽だって、あんたには本気を見せてくれないってもんだ。音楽もそこまでお人好しじゃあないんでね。

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drink9:ジキルとハイド

「シラフで女性を口説いたことがない」という男性が意外と多い。これには、いくつかの理由が考えられそうだ。とりあえずもっともありがちな理由としては「シラフで言い出す勇気がないから」だろう。もうひとつ「ラブを語る空間として、夜の酒の場所が手頃だから」というのも、うなずける。
 あるいは、もっと実用的な理由はこれだ。口説きに成功したら、すぐ「愛を確かめ合う」態勢に入れるからだろう。酒という潤滑油をつかって、2人の摩擦係数はほとんどゼロ。もうズルズル行くっきゃない、とばかりに。女性のほうにとっても「酔っている自分」が口説かれてオチるぶんには、それほど自己責任を感じなくて済む。
 酔うって、じつに便利なのだ。

 話はちょっと脱線するが、酔っていることが男にも女にも都合がいいあまり、酒のうえでの「愛の確かめ」が横行し、最近では「そういえば、シラフでエッチってしないよね」なんて声を耳にする。しまいにゃ「シラフでエッチするなんて、こっ恥ずかしくて」とか「酔った勢いでしないとノリが悪くて」なんて発言も、けっして珍しくない。
 それどころか、アダルトビデオなどで女優と男優がシラフで真顔になってエッチしているのを見ると、思わず「やっぱりプロはすごいよね、シラフであそこまで本気でやるもんなあ。仕事とはいえ、たいしたもんだ」などと、妙に感心しちゃったりする始末。

 本線に戻る。「シラフで女を口説かない」男たちは、シラフの時間はナリをひそめている。お目当ての彼女との「関係性」は、すべて酔いの時間に決着をつけようとする。
 たとえば、好みの女の子(同じ職場)といっしょに、昼間、公園のベンチでランチを食べているとする。そよ風がとても気持ちいいお昼。偶然の2人っきり。自分の気持ちを少しでも伝えられるチャンスなのに、おくびにも出さない。そんな「シラフ」のときは、きのう見たテレビドラマでけっこう涙が出てしまった話や、このまえ通勤途中で見たヘンなヤツのことなどを面白おかしくおしゃべりして、それに終始する。
 午後1時ちょっと前、お昼休みも残り少なくなり、公園から会社へ戻る途中、別れぎわの最後の最後にいかにも偶然思い出したように「あ、そうそう、いいお店見つけたから、そのうち飲みに行こーよ」と何気なくお誘いする。すべての決着は飲んでからだ、と《彼》は腹の底で思いつつ。

《彼》は感情を延期する。ラブの気持ちを、くり越し、くり越し、彼女とともに酔う日まで、持ち越す。ラブ・モラトリアム。
《彼》は、めぼしい女性に遭遇して「彼女を自分のものにしたい」と思うやいなや、その感情を心の奥底に「在庫」してしまう。この「在庫の感情」をいつ持ち出すかは、自分で決めている。「シラフじゃないときが、いろいろ都合がいいな」と。「酔って佳境のとき、僕の気持ちを浮上させよう」。

 このシステムは、《彼》にとってまことに都合がいい。彼女と飲む以前の「シラフ世界」では、自分と彼女の関係は「同僚」であり、たんなる「知り合い」である。感情は格納されている。したがって日常においては、身もだえするような片思いとか、恋のシーソーゲームのような、疲れる状態はとりあえず無い。この段階ではラブ・スイッチは入れない。感情を格納している自分は、普段はあくまでも「ニュートラル」である。恋の無理強いや、露骨な感情表現を回避することにより、誰も傷つけないし、誰からも傷つけられることもない。そして……

 そして、「飲みに行こう」と誘うときもニュートラル状態だ。ことの成りゆきに、楽観もしなければ、悲観もしない。極端な感情移入はしない。「飲みに行かない?」とオファーをかけて「NO」と言われれば、「あ、そ」と言うくらいのものである。「OK」が出れば、いっしょに飲みに行く。そして……

 そして、飲む。飲んで、酔いはじめる。「シラフ世界」は遠のきはじめる。そのとき初めて《彼》は、「格納していたラブ」を彼女の目の前にほのめかす。酔いの勢いで「シラフのときと違う自分」が彼女を口説きはじめる。かりにこの時点で、彼女が拒絶したら「酔っている自分」の「不始末」を「ほとんど冗談」としてやりすごすことにする。「きのうはゴメ~ン、酔うと俺ってどうしようもなくバカになっちゃうから、気にしないでね~」と、翌日、昨夜のことはなかったことにする。《彼》のラブは、ふたたび格納される。今度は、在庫するのではなく、死蔵する。

《彼》は、彼のラブにおいて、失敗や失態や失意という自覚症状はほとんどない。したがって、《彼》の「シラフの自分」はけっして傷つかない。
《彼》の「酔った自分」は、なかなかの悪戯好きで、破天荒なことをし、ときにはドジったりするが、自分の手下としてはかなり融通がきくし、見どころもある。しかも酒さえあれば、いつでもどこでも呼び出せる。自分の予想を裏切ることで、自分の予想を裏切らない「酔った自分」……。

 さて、あなたの中のジキルとハイドは……?

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drink8:心の形

「心」はどんな形をしているか、ご存じ?

 驚くかもしれないが、心はタライのような形をしている。昔の人が洗濯するときにつかった、あのタライ。小さな子供が行水をするときにつかった、あのタライだ。心は、あのタライのような形をしていて、しかも、その底のまん中には小さな穴があいているのだ。どう、予想外の形をしているでしょ? 心はあなたの体のなかにあって目には見えないけれど、じつはそういう形をしているのだ。

 では、「欲望」はどんな形をしているか、ご存じ? 
 食欲、性欲、出世欲、名誉欲、ラクしたい欲、カラオケ欲、読書欲……。人それぞれ、いろいろ欲望はある。その欲望も、目には見えないのだけれど、じつは形がある。どんな形だと思います?

 なぜか小さな球形をしている。ビー玉のようなものを想像していただければ結構。食欲、性欲、出世欲……それぞれがビー玉のような形をしているのだ。

 さて、あなたの心の中では、日々さまざまな欲望がうごめいていて、そのうごめきを反映して、あなたの生活がつくられている。「ああ、お腹すいた、ハンバーグでも食べに行こうかな」とか「海が見たいの、わたし」とか「なんか面白い本ないかなあ」とか「きょう、会社、休みたい」とかね。

 あなたは、あなたの心という名のタライを両手で抱えている。そしてその中には、欲望という名のいろいろなビー玉が無数に転がっていて、あなたの腕のかしげ方で、右に転がったり左に曲がったり、前からうしろ、うしろから斜めに行ったり来たり、ざわざわと動きまわっている。タライのまん中には、小さな穴があいていて、まるでゴルフのボールのように、その穴にみごと入ったビー玉が、あなたの行為の主導権をにぎる。

「映画見ようかな、それとも公園でひなたぼっこしようかな。ウ~ン、天気がいいから公園行こう」と《公園欲》のビー玉がころころ穴に入って公園行きが決定し、あなたはひなたぼっこに行く。「カレーにしようか、それともラーメンにしようか」あなたはタライを揺すりながら考える。《カレー》ビー玉と《ラーメン》ビー玉が転がりはじめ「そう言えば、きのうラーメンだった」ことを思い出し《カレー》ビー玉があっさりホールインワンしたりすることもある。

 現実にはもっと複雑な選択──つまりビー玉の数ははるかに多いのが普通だ。カレーと言っても、外で食べるのか家で食べるのか、外で食べるのなら専門店なのか日本そば屋なのかファーストフードなのか、あるいは遠くのうまい店まで出向くのか近くで簡単にすますのか。そのぶんビー玉は数を増し賑わう。場合によっては、いつまでも決め手がないまま、いくつものビー玉がタライのなかで漂いつづけることもあるかもしれない。

 ところで、あなただ。
 あなたも、あなたのタライを抱え、つねにそのなかでビー玉を転がしている。たとえば、夕方。仕事が終わりほっとひと息し、さあ、これからどうしようかなと、タライの中をのぞき込む。そのとき、あなたにはどんなビー玉が見えているのだろうか。
 ひょっとして、たそがれ時のあなたのタライには、ビー玉がひとつポツンと転がっているだけ、なんてことはないだろうか?  

「オジサン」と呼ばれている多くの人が、ほっとひと息したいとき、酒を飲むというビー玉しか転がらなくなってしまっているようだ。帰りがけに飲む、軽く飲む、1杯だけ飲む、ひとりで飲む、同僚と飲む、友だちと飲む、家で飲む、なんとなく飲む、テレビを見ながら飲む、寝ころがって飲む……。飲む、飲む、飲む、飲む。ほとんど条件反射。ほっとひと息したら、酒を飲む。ことさら他にするべきことも見つからず、飲んでしまう。

 仕事が終わると、がらんとしたタライの中に、「飲む」というビー玉が、たった1個。それが、あなたの心象風景? だとしたら、ウ~ン、その風景は、あまりにも寒々しい。

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drink7:場外乱闘

 会社には、会議室、応接室、談話室、喫茶室、休憩室など、さまざまな形で打ち合わせができる空間がある。にもかかわらず、その空間で「部下と対話」することを、なぜか避けたがる上司がいる。

 部下から「折り入っての話」や「一身上の相談」を持ちかけられると、《彼》は決まって「じゃあ、どうだい。今ここで、というのも何だから、帰りがけに1杯やりながら聞こうじゃないか」と切り出してくる。会社ですませてもいいはずなのに、なぜか外に場を移そうとする。いわば、リングの上でなく場外で決着をつけようとする「場外乱闘型」性格。

 あなたの周りにも、そういう人物がいないだろうか? なぜ《彼》は「場外」を好むのだろうか? これには、いくつかの理由が考えられそうだ。たとえば──

(1)就業時間中は、本来の実務的な仕事に専念すべきで、それ以外のことはなるべくアフター5で処理したいという配慮。(もし、そういうことであれば、それはそれで正論ではある)

(2)リラックスして話したほうがいい、という取り計らい。(しかし、リラックスして語るべき内容のものかどうか、まずはシラフで話すべきだということに気づいていない)

(3)会議室などの密室空間で、部下と2人きり──対決する関係──になりたくない。そのため、飲み屋など──第3者が無関係に関係している空間──を好む。

(4)判断能力に欠けるため、相談事に対して自信がない。シラフ世界だと、自分の無能さがあからさまに露呈する危険性があるので、酒の世界で、最後は酔うことでウヤムヤにする魂胆。

(5)とにかく酒が好き。飲む口実が欲しかった。

 さて、あなたの周りでは、どんなタイプの「場外乱闘」が起こっているだろうか?

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drink6:まかそ

 日本には、「中小企業」の中でもとくに小規模な「零細企業」と呼ばれている企業群がある。中小企業基本法の定義では、従業員数5人以下の企業を指すらしい(商業およびサービス業の場合)。
「まかそオヤジ」の混入率は、その零細企業規模でも充分に可能性がある。つまり5人程度で宴会しても、「まかそ」はかなり高い確率で出現すると考えていい。

 おっと、これはたいへん失礼した。あなたには「まかそオヤジ」が何であるかをご説明していなかった。ひょっとすると、あなたがソレである場合もあるので、ぜひ知っておいていただこう。

 会社にはさまざまなセレモニーがある。歓迎会・送別会といった不定期なものから、新年会、暑気払い、忘年会などの定期的なもの、さらにはお花見、社員旅行、運動会など準定期的なものまで、各社各様である。そのどれもが宴会と深くかかわり合っている。「まかそオヤジ」はそこに出現する。

 いわゆる宴たけなわとなるころ「まかそオヤジ」の動きもピークに達する。彼の使命は、宴会も佳境だというのにマジ顔で仕事の話をしている不粋な連中をいかに素早く駆除するか、ということにある。したがって、シゴト話マジ顔を発見するやいなや、目標物に向かって彼は驚くべき速さで接近してゆく。目標物、捕捉。彼はすかさずビールやら日本酒やらをマジ連に突きつけ──
「まあまあ、かたい話は、そのへんにして……」と言うが早いか、すでに相手のグラスに酒をドボドボと注ぎながら、無限にゆるみきった表情で、シゴト話もマジ顔もいっきに粉砕するのである。
「まあまあ」の「ま」、「かたい話」の「か」、「そのへんにして」の「そ」……つまり「まかそ」を言われたら、もう飲むしかない。いかに会社の命運にかかわる話をそこでしていたとしてもエンドだ。会社の宴会というオフィシャル空間で、仕事の話というオフィシャル行為を禁じられてしまう不条理さを感じつつも、抵抗できない何かがある。

 このオヤジの赤ら顔には、宴会というものへの忠誠心がみなぎっている。宴会への忠誠は、会社への忠誠なのだ。このオヤジの勤続35年はダテではない。かつて「会社は家族だ」と日本経営者の誰もが唱えていたころからの生き残りだ。全社員が一丸となる宴会は、まさにそのことを酔いに酔って証す場なのだ──と、今でも信じて疑わないオヤジは、けっして、ひるまない。酔いを深めながら、頑としてひるまない。

 ひるまないでおこなえることなどこの世には何もないと思っている次世代社員は、「まかそオヤジ」の、ほのぼのとしてはいるが「けっして、ひるまない」物腰に、あらがうすべもなくカンタンにひるんでしまう。注がれるままに酒を飲むしかないのだ。「まあまあ、かたい話は、そのへんにして、さあ、ぐうーっと一杯、飲みほして……」。飲むしかないのである。やるせない気持ちにさいなまれながら、ただひたすらビールでもすすっているしかないのである。

「まかそオヤジ」をうとんじてはいけない。あなどってはいけない。笑ってはいけない。なぜなら、「まかそオヤジ」は、たしかに日本が生み出した遺産なのだから。

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drink5:頑張る

 残念ながらサラリーマンの世界では、「頑張る」ことがもたらす達成感がほとんど見えないまま毎日が過ぎてゆく。

 面白くもない書類を山のように作成する(「で、それがどうなった?」……「わからない」)。電話の向こうで怒鳴っているお得意さんに頭を下げる(「で、状況は好転した?」……「ぜ~んぜん」)。部長の嫌味にじっと堪える(「で、気に入られた?」……「ますますイビられるばかり」)。コンピュータ画面を1日中にらみつづけ、そして目をしょぼつかせて家へ帰る(「で、仕事を終えた充実感は?」……「あるわけないだろ、目を悪くしてまで」)。
 山のような書類。頭を下げる。じっと堪える。目をしょぼつかせる。……そのどれもが自分のことなのに、自分には関係のないことだらけ。だから、会社から解放されたら、身も心も洗うように酒でも飲まなければやってられない、という気持ちは良くわかる。

 その物語は、しこたま飲んだ翌日の朝、始まる。サラリーマンA氏は、どろりとした二日酔いのなかで目を覚ました。と同時にトイレにかけ込み、ゲロをひと山吐いた。吐いたからといってラクになるわけではなかった。胃袋の底では酸っぱい胃液がジュルジュルとくすぶり、食道をいっきに駆け上がろうとしている。立とうとするが、あまりにも気持ちが悪く、足に震えがきてしまっている。会社を休みたい、と思う。こんな状態で満員電車に乗って揺さぶられたら……。

 あああ休みたい。でも、でも、でも、だめだ。きのうは部長と飲んでるんだ。あの部長、部下と飲んだ翌日は、ことさら気合いを入れて出社するからな。部下が休もうものなら、勝ち誇ったように査定対象にするっていうイヤな性格だ。畜生。なんでアイツと飲んじまったんだろう。タダで飲めると思うとついお供してしまう俺の卑しさだ、今に始まったことじゃない。サラリーマンはみんなそうだ。うっ、また胃液がゴボゴボこみ上げてきた。

 きょうは会議が3つもある。おまけに、ひとつは俺が議題進行するんだ。そうだった、そのことで部長と飲みながら話したんだ。根回しなんてアホなことやったもんだ。きょうは絶対休めないぜ。さあ、早くしないと遅刻しちまうぞ。まずは、胃薬……、シャワー……、ああ、目がまわる……

 必死で家を出て駅まで来たけど、足がふらつくし、額は脂汗でべっとりしている。なんて最低な朝なんだ。おいおい、きょうはやけに電車混んでるじゃないか。いや、気のせいなんだろうな。俺、この電車に乗って本当に平気なのかい? 吐いちゃうんじゃないのか? まいったなあ。畜生、やっぱり吐きそうだ。でも、吐くものなんてもう胃の中にないよ。胃液だってさっき出きっちゃったじゃないか。ええいっ、吐いたら吐いただ。ヨイッショッと。おい、なんだこの女、香水を頭からぶっかけてきたんじゃないのか。くせえんだよ。ああ、ダメだ、ものすごい吐き気。ウワアァァ。

 ああ、死にたい、死にたい、死にたい。なんとか我慢してるけど、もう限界だ。舌の裏にドロッとした唾液がたまっている。今にも口から溢れ出してきそうだ。神様、もう2度と酒を飲みませんから、もうひと駅だけ、もうひと駅だけ我慢させてください。もうひと駅。頑張れ、自分! もうひと駅だ。

 降りたらトイレにダッシュだ。やった! なんとかトイレまではクリアした。もう胃液は出ないだろう。もう、完全にからっぽ。さあ、時間がないぞ。走れ。バス停まで全力疾走だ。おおっ、あのバスだ、あれを逃すと遅刻だ。走れえええ。よーーし、乗れたぜ。やったじゃないか。さっきの全力疾走、どこにあんな根性があったんだ。俺もなかなかやるじゃないか。と、安心した途端……ウップ、こりゃまずい。また、吐きそうだ。何もないはずなのに、なんだこりゃ。バスの揺れってのはタチが悪いんだよ。うわああカバンの中にしちゃええええって思ったら、ラッキー! ちょっとおさまったようだ。早く停留所に着け。次だ。早く早く早く早く早く早くううう! もうすぐだ。頑張れ、自分! 頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れええええ……、頑張れええええ……、うおおっ、ついに停留所に着いた! 営業2課の◯◯さんが挨拶しているようだが、そんなこと知ったこっちゃない。走れ!

 タイムカード! 滑り込みセーーフ!! ははははは、どうだ、やったじゃないか。ついに、やったぜ。えらいぞ、自分! 見直した、自分! この超二日酔いをよく堪えた。よくぞ頑張った、自分!! 

 サラリーマンA氏は、頑張った。これほど頑張って、これほど勝利を実感したことは、ついぞ最近なかった。サラリーマンA氏は確たる満足感を、いま我がものにしている。克己、勝利、達成感。俺もまんざら捨てたもんじゃない、と。だが、最後に、思うのだ。

「でも、きょうの俺って、ただの、酒くさいだけの、二日酔い社員なんだよ」

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drink4:エロビス

『酔うと、いつもとちがう自分がいた。
 奔放で、奇妙な、恥知らず。
 際限のない自分。
 そんな自分を、だれかが待っている。
 「やあ、また会ってしまったね。」』

 サラリーマンのJ氏・総務部長51歳は、飲み方にパターンがあった。まず1軒目は同僚たちと、会社の近くの小料理屋で和気あいあいと飲む。日本酒を好み、4合くらいをペロリと飲んでしまう。ツマミは極力食べずに空っぽの胃袋に酒を流し込む。「若くないんだから、体に毒だ」と同僚に言われても聞く耳をもたない。キューッと沁みこむ酒の味わいがたまらない。ほんの小1時間でかなりデキあがる。

 その店を出るとJ氏は同僚たちと別れ、彼らとは反対方向に歩きはじめる。裏道をくねくねと歩き、先ほどの小料理屋よりさらに小さな小料理屋にたどり着く。時間にして8時半頃。その店は馴染みしか来ないので、J氏は居合わせた客と冗談を交わしながら、さらに日本酒をあおる。3合ばかり飲み、店の女将と『銀恋』『愛しちゃったのよ』『高校3年生』などを続けざまに歌い、さらに2合ほどたいらげる。

 10時頃、店を出る。J氏は、財布のなかをドロンとした目つきでのぞき込む。すでに1升近くを空きっ腹に流し込んでいることになり、かなり酔いを深めている。うなるような鼻歌がはじまる。酩酊する1歩手前だ。千鳥足。タクシーをつかまえ、ワンメーターほど走らせる。とある駅前からのびている商店街のはずれ、ひっそりとたつスナックの前で降り立つ。
 ゆらゆらと進み、勢いよく扉を開けるやいなや、J氏の第1声が高らかに店内に響きわたる。

 「ヘ~イ、エブリバディ、ハウ、アー、ユー! ハ~イ、マダ~ム、フアット、ア、ファンタスティック、ナイト、ドンチュー! アイウォナ、バーボン、オン、ザ、ロック、ストロング、ファック、プリーズ、プリティ、ベイベー! アイ、ウォナ、シング、プレスリー!!」

 常連客は笑って見ているが、はじめての客はあっけにとられている。J氏は、これから数時間にわたってこの店を賑わすが、日本語はひとことも発しない。ほとんどめちゃくちゃな英語らしきものを、延々とまくしたてながらバーボンをグビグビ飲みほし、プレスリーを歌いまくる。店の女の子の胸を、カウンター越しに撫であげながら「ナイス、ダイナマイト、バスト! サンキュー!」とほえる。毎度のことに、女の子はあきれ顔で体をよじってかわそうとする。
 Jは、この店では自分のことを「エルビス」と名乗っている。が、みんなは彼を「エロビス」と呼んで、ゲラゲラ笑っている。

 J氏のガイジン飲みは、はるか学生の頃に端を発している。友だちとふざけて「変な日系2世」を演じたのがあまりにも面白くて、その後も飲むたびにたわいもなくガイジン遊びをしていたのが、いつしか10年、20年と月日が流れ、すっかりわが身に染みついてしまった。さすがにシラフではそんなことはしない。また会社の人間の前では、酔ってもそんなところをさらすことはない。泥酔する前に同僚たちから逃げるのである。いや、そうではない。同僚たちから解放されると、堰を切ったように酔いがまわり、ガイジンJへの助走がはじまる。

 そして謹厳実直な勤め人J氏は、酔いの極まりのなかで「いつもとちがう自分」としてガイジンJへ豹変する。行きつけのそのスナックは彼の格好の舞台なのである。誰にはばかることなく際限なくガイジンJになり、エロビスとして振るまう時間。驚くことに、本人はほとんど記憶にとどめることのない時間。

 そんなJ氏が、ある夜そのスナックで役者志望R子19歳と出会った。2人とも泥酔していた。R子は、初老男の恥知らずな言動が、素晴らしい奇行に思えた。真のアーティスト、隠れたる非凡のように思えた。意気投合し、どちらからともなく誘い、酔いまみれのなかで2人は寝た。
 J氏は、生涯たった1度の無断外泊の朝を、R子のアパートのベッドのなかで迎えた。そこには「ガイジンJ」はいなかった。J氏は「いつもの自分」にもどっていた。謹厳であることに疲れきった51歳・総務部長の、ただの二日酔いのオヤジにもどっていた。うすくなった頭がいたましかった。しょぼつく目には目ヤニがこびりついていた。もぞもぞとわびるように日本語を発するJ氏を、19歳R子は枕に顔半分うずめたまま茫然と見つめていた。けがらわしいものを見る目だった。R子のこわばった口からなにか音が漏れたようだったが、J氏には聞きとれなかった。
 R子はベッドから飛び出すと、裸のままトイレにかけ込んだ。それっきり出てこなかった。J氏が声をかけても反応はなかった。
 51歳の初老男と19歳の若い女の、あまりにも無惨な朝だった。J氏は、R子のアパートを逃げ出した。
 
『あなたが飲むのは、なぜ?
 ちょっぴり、いつもとちがう自分になるため?
 でも、気をつけてくださいね。
 「いつもとちがう自分」を愛されることほど、
 つらいことはないのですよ』 

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drink3:くり返し

 友人Kには、飲んだ帰りに必ず立ち寄る、ごひいきのラーメン屋があった。あっさりとしたスープに、硬めのちぢれ麺がほどよく浸っていて、Kの酔った味覚には格別の味わいだった。しかも、この店のビールは冷え方がしっかりしていて、お通しのザーサイをつまみながらの、ダメ押しの一杯がじつにうまい。
 ゆえに、ハシゴ酒でゴキゲンになったときKは、そのラーメン屋でゴキゲンな夜の総仕上げをするのが常だった。Kは悪酔いをすることのない男だった。いつもゴキゲンだった。ちょっとベランメエな喋り方にはなるが、きっぷのいい江戸っ子のような気持ちよさがあり、どの飲み屋でも歓迎された。

 そのラーメン屋は駅前にあった。カウンターにすわると、正面のガラス窓を通して往来が見渡せるかたちになっている。ということは、駅から出てくる人と目が合ってしまうのだ。衆人環視のなかで飲み喰いしているようで、どうも居心地がわるい。

 ある晩、Kはそのことを店のオヤジに告げ、なんとかならぬものかと話をもちかけた。「飾り紙を貼るとかして、目の高さのところだけでも目隠しすると落ち着くんだがなあ、オヤジさん」 すると人の良さそうなオヤジは、さも感心したような素振りで「ほんとだ、こりゃいけない。ぜひなんとかしましょう」と、にこやかに返答するのだった。

 それから一週間ほどが過ぎ、Kはまたラーメンをすすりに行った。その日も飲み屋を3軒ほどハシゴした帰り、Kはいつものようにゴキゲンだった。味噌ラーメンを頼んで、ほっとひと息するまで、例のことはすっかり忘れていた。ガラス越しに若いOLと目が合って、はじめて思い出した。ガラス窓はこの前と同じだった。なにも手が加えられていなかった。
「あれ、オヤジさん、まだ外が丸見えだね」
「ああ、すみません、今度いらっしゃる頃までにはぜひ……」オヤジは恐縮して詫びるのだった。
 こんなことが1度ならず2度3度とつづき、そのたびにKとオヤジは「頼むよ、オヤジ」「すみません、つい忙しくて……」のやりとりになる。しかしガラス窓に目隠しがほどこされることは、その後もなかった。といって、オヤジが開き直ったのかというと、そうでもなく、相も変わらず腰を低くして詫びるのだった。

 そんなある日、Kが突然酒をやめた。酒をやめれば、当然生活も変わる。夜を外で過ごすこともめっきり少なくなり、あのラーメン屋からも足が遠のいていた。

 ある晩、残業で遅くなったKは、駅前のラーメン屋で空腹を満たすことにした。そういえばシラフでこの店に入るのははじめてだな、と思った。なつかしい匂いだった。塩ラーメンを注文した。その瞬間、オヤジと目が合った。愛想のいいまなざしが返ってきたが、その視線はすぐ手元の鍋にもどってしまった。Kは、しばらくオヤジを見ていた。

 オヤジは、いそがしく麺をほぐしたり、ドンブリを並べたりしている。シラフで見るそれらは、すべてはじめて見るもののように感じられた。鍋、ドンブリ、調味料類……。Kは、なにげなくあたりを見回した。そして、例のガラス窓にたどり着いた。なにも変わってはいなかった。やはり丸見えだった。外を行き交う人々の視線が、Kの顔をさわって行く。
 Kの頭のなかで、突然なにかがスパークした。かつて味わったことのない憤りがこみ上げてくるのを感じた。オヤジが、チラリとKを見たような感じがした。いや、これは「感じ」じゃない。たしかにいまKの様子をうかがったのだ。あの愛想のいいまなざしの奥から、わずらわしそうな視線を発していた。Kは、そのとき気がついた。すべてを悟った。

──このオヤジ、最初っからガラス窓に目隠しなんか、するつもりなかったんだ!!

 酒の入っていない、酔っていない透明なKの頭に、するどい怒りが突き刺さった。Kはラーメンが出てくる前に、金だけを置いて黙って店を出た……

「あのオヤジにとって、俺の頼みごとなんて、ただの酔っぱらいのたわごとだったんだろうな。だから、いい加減な気持ちで、する気もないことを『今度までには何とか……』なんて言っていたんだろう。『やらない』とでも言おうものなら、面倒くさいことになるとでも思ったんだろうか。酔ってる人間は適当にやり過ごすにかぎる、とでも……」とK。
 いずれにせよ、あのオヤジの愛想笑いは、無視の笑いだった。そして、Kはつねに酔いの中で、それに気づかなかった。見落としていた。

 Kはしみじみ言う。「じつにたわいない出来事だから、どうでもいいことなんだけど。ただひとつ言えることは、俺が、今でも酔ってあの店へ行っていれば、あのやりとりを何度も何度もくり返していたんだろうなって気がするんだ。酔うってことは、つまり、くり返しを延々とやることなんだろうな。こわいよね」

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drink2:気まずい話

「こみ入った話」「深刻な話」「気まずい話」をするときほど、人は酒の力を借りたくなる。シラフではちょっと話しにくいことや、長々と話すことになりそうで到底お茶では場がもちそうにないとき、相手にこう切り出す。「折り入って話があるんだけど、今夜あたり1杯やりながら、どう?」と。相手はスケジュール帳をながめ、空いていることを確認してOKする。

 さっそくその夜、2人は連れだって夜の街へ出た。1軒目、居酒屋風の店。乾杯をし、ツマミをオーダーする。しょっぱなからシリアスな話もなんだから、世間話のひとつやふたつする。あたりさわりのない話。最近、犬に服を着せて散歩しているヤツがふえたが、あれはけしからん、だとか。西暦3000年くらいにはタイムマシーンが完成しているかもしれないと雑誌に書いてあったが、もしそうなら、そのタイムマシーンに乗って千年前の今に来ているヤツがいなければならないのに、来た様子がないじゃないか、とか。どこそこのサッカー・チームのゴールキーパーは、なぜあんなにPK戦に弱いんだろう、とか……。酒もほどよく進み、なごやか路線快調という感じになった。

 さて、そろそろ本題に入ろうかと身構えた。が、この居酒屋の騒々しさがわずらわしい。いままで気になったことなどなかったのに、きょうはまったくダメだ。場所を変えることにし、勘定を済ませ店を出る。静かなバーがいいだろうということになって、2人は夜風に吹かれながら歩く。途中、露店をひやかしているうちに結局くだらないオモチャを買うハメとなり、互いに苦笑する。ほろ酔いの晩としては、じつにありがちで、これがまたなんとも言えず気持ちをやわらげる。

 2軒目のバーはなかなか雰囲気のいい店で、「隠れ家」といった感じだ。友人もけっこう気に入った様子。こみ入った話をするには邪魔も入らないし、静かなのでまさに絶好の店だろう。2人はそれぞれオーダーをする。バーテンはすばやく酒を用意し、すばやくグラスをカウンターに並べる。あらためて乾杯。いよいよ本題だ。「で、話というのは……」一端そこで言葉を切り、友人の顔をうかがうと、ややこわばった表情をしているようにも見えるが、今晩のなごやかな運びが功を奏してか、おだやかに聞いてもらえる態勢にある。

「じつは……」いよいよ話を開始しなければならなかった。「なぜ、こういう話を、いまさらしなければならないのか、心苦しいと言えば心苦しいが、お互いの立場を考えると、いまのうちにクリアしておかないと後々しこりになってしまいそうなんだ。いままでも、仕事をしていくうえでこういう難関はあったし、そのたびに乗り越えてもきたのだから、今回のこの話も冷静に受けとめてもらえると思うんだ。言わなければならない俺のほうも、けっこう滅入ってるんだよ……」という具合に、前置きを延々と並べ、やっとこさ核心を告げる心の準備ができた。相手も、相当深刻な話をされるらしいという覚悟がかたまり、首を洗って待つ状態になった。

「おまえと俺とは同期の入社だから、本来俺がこんな話をするのは筋違いなんだが、これも部長の配慮でね。じつは、おまえのポジションなんだが……」と核心に触れようとした瞬間、相手が「あ、ちょっと待った」と話をさえぎる。「あのさぁ、どうせあまり嬉しくない話なんだろうから、もう1杯オーダーさせてくれ。きょうのこれ、部長のおごりだろ? 経費で落とすんだろうからガブガブ飲んでおかなきゃな」と言って、ウイスキーのロックをダブルで頼んだ。じゃあ俺も、ということで同じくロックのダブルをオーダーする。その隙に相手はトイレに立つ。空気が変わる。一瞬、緊張がゆるむ。と、こちらも尿意を催していることに気づく。

 トイレから出てきた相手は、さっぱりとした顔をにこやかに向けた。つられて、こちらの表情もゆるむ。「俺も、小便だ」スツールから腰をはずし、離れぎわに、いま出された新しいウイスキーのロックをずどんと胃袋に流し込む。体の中でぱっと熱さが広がる。友人が「やるねえ」と笑う。「ああ、飲まなきゃいられねえよな」。トイレに入る。膀胱にみっちりたまった尿が、じょぼじょぼ出る。同時に、緊張がじょぼじょぼ抜けていく。「なんかアホ臭くなってきた」ひとりごと。排尿時間がやけに長く感じる。

 戻ると、相手はまた新たにウイスキーのダブルをオーダーし、バーテンがそれに応じているところだった。「また、おかわりしてるよ。おまえが小便に行っている間に2杯もあおっちゃったよ。かまわんだろ?」「ああ」「きょうの酒、妙にうまいんだよ。ヘソ曲がりか、俺?」「かもな」 完璧に空気が変わってしまった。まずい、と思った。
 しかし手遅れだった。
 相手がうかがうような目で、苦笑まじりに言う。「なあ、きょうのところは飲むだけってことにはできないか? どうせ、判決は下りてるんだろ。逃げも隠れもできないんだ。今晩は思いきり、ぱっとやろうや」
「……ああ、そうするか」

 気まずい話ほど、人は飲みたがる。
 気まずい話ほど、正気でなければいけないのに。
 気まずい話ほど、結局、酔ってしまう。
 気まずい話ほど、前へ進まない。

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drink1:インスタント孤独

 一日の仕事が終わって、まず最初に考えることは「帰りに一杯やっていこうか、どうしようか」ということだったりする。きょうの疲れを洗い流してくれる清き一杯に身をまかすかどうか、デスクを片づけながら心の中もついでに整理してみる。よし、きょうは軽く飲んでいくとするか……。
 飲む方向で気持ちがかたまるやいなや、つぎに「誰と飲もうか」でちょっと悩むはずだ。できれば気の合う友と最高の時をすごしたいと願うのは、誰しも同じこと。相手をミスチョイスすると、せっかくのひとときが台無しになってしまう。
 頭の中に友だちの顔をつぎつぎと思い浮かべ品定めをする。検索数秒、候補が決まれば、あとは電話をかけるだけだ。

 ところが、いつでも都合よく友が応じてくれるとは限らない。学生時代からの無二の親友Aは、残業でアウト。「友だち以上、恋人未満」の関係B子は、風邪のためパス。社内で唯一気が合う同期のC は、カノジョとのデートがあるためノー。といった具合で、きょうは徹底的に「お相手」に恵まれない。
 空振り、空振り、三振、四振、……こんなとき、あなたはどうするか? ひとり寂しく飲みに行くのか? 「ノー」だ。ではきっぱりと諦めて帰宅の途につくのか? これも「ノー」だ。
 あなたはいま、良き友たちから見放されてしまい、軽い傷心にてこずっている。「たった一夜のこの時間を、共にしてくれる人間にさえ不自由してしまうのか、オレは」……思いもよらぬ、突然の孤独感。インスタント孤独感。 
 ひとりで飲みに行くのもイヤ、家へとぼとぼ帰るのもイヤなあなた。あなたがいましたいと思っていることは、ただひとつ。それは、自分がひとりではないことを、その晩のうちに、なにがなんでも確認しておくこと。なんとしてでも誰かと酒交をあたためる必要があるのだ。
 かくのごとく、ほとんどの酒飲みは、ほとんど毎夜、インスタント孤独に遭遇する危険性をはらんでいる。

 酒飲みのなかには、ひとり超然と飲むことを好むという人もいるが、多くの人は「誰か」が必要だ。仕事では毅然としている人までもが、どうしたものか酒を前にすると人肌を恋しがってしまう。誰かを探し求めてしまう。あなたの職場にもいるでしょ? 夕方になると飲む相手を求め、もの欲しそうにしている人を。
 なぜ人は酒の前にたつと、人肌とか心の温もりとかに、こうも卑しくなってしまうのだろう。

 相手探しの電話はさらにつづく。はじめは「良き友と、酒を」と決めつけていた気持ちも、いつの間にやら「いわゆる友だちと、酒を」と値引きされ、やがては「とりあえず知り合いなら、誰でも」と叩き売りがはじまる。酒に飢えているのか、人に飢えているのか、すでに分からなくなっている。
 あなたの頭の中には「誰でもいいからいっしょに飲んでくれ~」という気持ちが蔓延しはじめている。こんな時、ふらふらとタイムカードの前に立ち、ひとり肩を落として退社時間を打刻していると、どこからともなくその声の主はにじり寄ってくるのである。「どうだ、たまには、一杯やらんかね」と。そう、その声の主とは、あなたが日頃はもっとも敬遠している上司だったりする。
 もし、このとき、あなたの上司が「どうだね、その辺の喫茶店でコーヒーでも飲みながら、さっきの仕事の話でもしないかね」とのたもうたのなら、あなたは何も考えるまでもなく「すみません、きょうは友人と約束がありまして」と即座にバリヤーをはるはずだ。ところが、「たまには、一杯」にはなぜか抵抗しがたいものがあるばかりでなく、あろうことか「今宵の友得たり」とばかりの安堵感さえわきあがってくるのである。ついでに「きょうは、俺のおごりだ、パッとやろうか」とまでくれば、もう、ほとんどヘナヘナと追従するのみだ。

 そして……、その晩あなたは酒場でどうなっているのかといえば、酔った勢いの上司にいつもよりテンション高くグチグチ、グダグダ説教されながら、ウンザリと悪酔いしているのである。「なんで、こんなヤツと、俺は飲むことにしたんだろう」 悪い酔いにしびれる頭の中で、あなたはぐったりと後悔するのである。ついでに申しあげれば、あなたはこういう後悔を今までに何度となくしてきたはずだし、飲む限りはこれからもすることになる。
 一般的に、酒を「飲む」とは「誰かと飲む」ことを意味している。その限りにおいて、あなたは飲もうと思いつくたびに、インスタント孤独感にさらされるリスクを背負い、人肌に卑しくなってしまうのである。

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