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愛犬の思い出

子供の時に、柴犬の雑種の雑種のそのまた雑種(と呼ぶしかないような、柴犬の面影はあれどもきわめて素性の怪しい犬)を飼っていた。

“柴犬DNA”を少なからず持っているのであろうその犬は、小さいくせして気の強さはベラボーで、自分よりもはるかに大きな犬にでも常習的にケンカを売っていた。しかしながら人間の言うことはきちんとよく聞く犬だったので、僕はこの犬のことを、ケンカ好きなのに義理堅い「森の石松」のようなヤツだな、と思って気に入っていた。(←その頃、清水の次郎長や森の石松は、子供たちにとってヒーローだった。古!)

その犬とあまりにも仲がよく、毎日濃厚なスキンシップを繰り広げていたため、ついには僕の腹の中には、犬にしか発生しないはずの回虫だかギョウ虫だかがわいていしまうという惨事に見舞われることもあった。犬小屋がかなり大きかったので、その中でいっしょに昼寝をしたり、じゃれ合ったり、おやつを食べたりしていたのが原因だ。
人が犬を飼っているのか、犬が人を飼っているのか、見分けがつかないほどだった、らしい。

当然ながら、散歩にはよく連れていった。
散歩していると決まって誰かが近寄ってきて、犬の頭を撫でながら聞くのである。
「この犬、何ていう名前なの?」
「ロンです」
「へええ、ロンねえ。どういう意味があるの?」
そこで、僕は得意げに犬の名前を説明する。
すると、なぜかたいていの人がわずかに表情を曇らせ、その目に憐憫のようなものを浮かべながら「そ、そうなの……」と言って、ちょっとこわばった空気を残して立ち去っていくのだった。
取り残された僕は、妙な雰囲気に小首をかしげるのだけれど、次の瞬間にはロンの引っ張りを喰らってふたたび走り始め、走っていると先ほどのことは忘れてしまっていた。

そんなことを繰り返していたのだけれど、子供の成長は速いもので、僕の思慮も日につれて深まり、「ロン」の名前で大人たちが顔を曇らせる理由も段々とわかってくるのだった。
それまで僕は、大人たちにこんな説明をしていたのだ──

「ロンは、マージャンで“上がり”という意味があります。だから“ロン”は縁起がいいし呼びやすいって、お母さんがつけました」

今でこそ「ゲーム・マージャン」という呼び名があるほど、マージャンを健全な遊技として見るようになってきてはいるけれど、40年ほど前のあの頃はそうはいかなかった。あの頃はまだギャンブルとしての胡散臭さが根強く、『麻雀放浪記』のようなすさんだ世界を思い浮かべる人も多かったのだと思う。
その裏街道の遊技・マージャンの上がりを意味する「ロン」を、公然と犬の名前につけ、しかも、その命名者が母親で、しかも、その子供は悪びれずに「“ロン”は縁起がいいし呼びやすい」と説明する──そういう家庭環境ってどうなっているの? 今ごろ親は家で札びら切って賭けマージャン? ひょっとすると、この子の家はずばり○○組……?

と、まあ、そんなことを大人たちは想像しならがら、不憫な僕を見つめているのだろう、ということに気づいた。
ゲゲーーーーッ!
父親は普通の勤め人、母親も普通の主婦で、ちょっと家庭マージャンが好きだというだけなのに……。いや、だとしても、「ロン」はまずいよ。なんていう母親だ! なぜ「ロン」なんて名前をつけたんだ! 「ポチ」でいいじゃないか! 確かに森の石松みたいな犬だけれども「ポチ」とか「タロウ」でよかったんだよ!

僕は僕なりに疑問と義憤を感じ、ある日ついに決行した。両親には内緒で、ロンを「タロウ」と改名することにし、勇んで散歩に出かけた。
いつものように、人が近寄ってきて名前を聞いてくる。
「タロウと言います」
僕は毅然と、しかしかすかに罪深いものを感じながら、そう答える。
「タロウ」の意味を聞いてくる人間などいない。「タロウ」は「タロウ」だ。「ロン」のようなわずらわしさがなくてラクだな、などと思ってほくそ笑んだその瞬間だった。タロウがいきなり走り始めたのだ。油断していた僕は、手から綱を放してしまった。タロウは全速力で走った。タロウのはるか前方に、でかい犬がいるではないか。ヤバイ! ロン、いやタロウがすっかり森の石松になっている! ケンカだケンカだケンカだ! ワンワンワン! ワンワンワン!
僕のそばにいた大人が叫ぶ「タロウ! タロウ! タロウ!」
僕も叫ぶ「タローーーーーー!」
しかし、アイツは止まらない。そうか、タロウは自分がタロウだとは気づいていないんだ! ロンのままなんだ。まずい!
そのことを思い出して、僕は走り始めながら、さらに声を張り上げて叫んだ。

「ローーーーーン! ローーーーーン!」

すると、ロンがピタッと止まって、僕のほうを振り返った。
その時の光景! 忘れもしない!
小さい犬なのに、凛々しく、賢く、すっくとたたずんでいるのだ。

僕はロンのそばに駆け寄り、ロンを抱きしめ、「ロンのバカ!」と言いながら、なぜか泣いてしまった。
ロンが僕の言うことをきっちり聞いてくれた嬉しさと、ロンの名前を勝手に変えようとした悔やみがごちゃまぜになって、涙になってしまったような気がする。
すでに40年ほど前の話だ。

ロンが死んでから、犬は飼っていない。

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