drink11:祝杯
なぜ、私たちは「祝杯」と称し、めでたい時に酒を飲むのだろうか。
酒は、人の心を開き、喜びをさらに大きくするから、という効能があるからかもしれない。あるいは、かつて慶事は神事であり、それゆえ御神酒としてありがたくいただいていた、という慣習に従っているのかもしれない。あるいは、つねに飢餓と隣合わせだった時代、祝いの時くらいは何としても景気づけたいという願いもあったのかもしれない。あるいは──
かつて(と言うよりも大昔)私たちがまだ「村」という小世界で暮らしていた頃、個人の祝い事であっても、それは村人全員のめでたき出来事であった。川向こうのゴサクの息子と、山あいのタロベエの娘が結婚するとなれば、それは村全体の了解事項でありイベントでもあった。いわば村全体が祝いの空間と化するのだった。だれもが浮かれ、酔い、あげくの果てに喧嘩が起ころうと、「きょうは、たいそうめでたい日じゃ。かまわん、かまわん」ということになった。そう「みんなで祝えばコワくない」のだ。誰も咎める者はいない。巨大な「身内型空間」は超法規的状態となり、大いなる無礼講が始まる。
ひとつの祝い事、ひとつの祝い酒が、(ムラ的)全空間をおおうことができた昔は、酒はまことに重宝なソーシャル・ドラッグだったのかもしれない。
しかし、いまの私たちの生活ではそうはいかない。たとえどんなに大きな結婚式に出席しコトブキ気分に浸ろうと、結婚式場を一歩出れば、そこにはシラッとした日常が冷ややかに待ち構えている。あなたがどんなにめでたい気分のもとにイワレのある酔い方をしていようとも、同じ電車に偶然乗り合わせた他人には、ただの酔っぱらいにしか見えない。たとえ「結婚式の帰りなんだな」と思ってもらえても、だから酔っぱらってもいいというわけにはいかない「他人型空間」の中に、あなたは身を置いているのだ。今日(こんにち)においては、昼日中から赤い顔をしているのは相当勇気のいることなのである。
「祝杯」が住みづらい世の中になってきたのだ。
しかも、祝い事そのものが大量生産され、日常化しはじめている。「この村3年振りの結婚式だべ、めでてえ、めでてえ」などという、かつての村人のようなストイックな感覚はもはやない。大安吉日の日曜日ともなれば、1日で2つも3つも結婚式をこなすという人までいるくらいだ。こうなるとすでに祝い事は「スケジュール」でしかない。かつて「身を捧げ」て祝い事や祭り事に取り組んでいた頃とは勝手がちがってしまい、やみくもに「酔う」ということが、不釣り合いになってしまったのだ。
酒というソーシャル・ドラッグが、これからどうなるかはわからない。でも、少なくとも「祝杯だ!乾杯だ!」と誰はばかることもなくガブ飲みする時代は終わったのかもしれない。
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